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たまこまーけっと/たまこラブストーリーについて

メタファーまみれの傑作アニメ映画 ”たまこラブストーリー”はオタク批判か?

 

小野ほりでいによるあまりにも粗雑な読解に何故かアホみたいな数のブクマがついているので一応文句を言っておかねばならない

 

"「ぐるぐる回るもの」=「変化や未知のものを恐れて逡巡し、一歩前に踏み出せない状態」という暗喩"

いえですね、まず月の公転というのは地球の重力に引かれて半永久的に「落ち続けている」のだ、というのを恋に「落ちる」にかけてあってですね、だから冒頭のニュートンのリンゴが重力に引かれて落下するわけです。それは変化や未知のものをおそれて逡巡しているという象徴では当然ないわけです。もちぞうはあくまで恋に落ち続けているわけです。そもそも円とか輪とかモチーフというのは映画けいおん!のメインのモチーフと言っていいわけですが(なんせ主題歌が運命・輪・エンドレス)、それに山田尚子監督は変化や未知のものをおそれて逡巡なんていう意味を与えていたかと言われたらNOなんですよ。過去にあったもの、これからも続くもの、継承したもの、次へと繋ぐもの。それをこんな読解してしまうのちょっとありえないです。

 

"多くのメタファーが含まれるこの映画で、比較的わかりやすい「ぐるぐる回るもの」=「変化や未知のものを恐れて逡巡し、一歩前に踏み出せない状態」という暗喩が、そのままアニメーションに変化を求めないオタク像と重なったためです。

よくいう”社会生活で疲れたアニメオタクが、家に帰って見たいのは「何も起きないアニメだ」”という言説を鵜呑みにしてのことですが、当時からあるこの言説も、あながち間違いではないのではないでしょうか。"

 

大間違いです。この手の自意識過剰なオタク的読解こそがたまこまーけっとが最も強く否定しているものです。小野ほりでいマジで死ねッて感じです。

北白川たまこというキャラクターは自意識過剰の正反対、モノローグではなくダイアローグを中心に生きているキャラクターです。人と人との関係の中に生き、自分の事をよく考えていないからこそ「落ちてくるもの」であるバトンを「受け止めるのが下手」で「重心」を意識しろと言われ、糸電話の片方を「受け止めるのが下手」で、そして実際もちぞうに告白された時に自分の気持ちがよくわからなかったために「受け止められない」わけです。別に変化を恐れているわけでもなんでもなく単に自分が何であるのかというのをあまり考えてこなかった子なんです。

たまこまーけっとは自分が事件の中心でありながら私は普通にしているだけなのになぜ周りの人々は騒いでいるのか、という本人だけが蚊帳の外、という話で、停滞している事を積極的に希求したことなどは一度もないんです。馬鹿じゃないのか小野ほりでい

マスコット的立ち位置としては「チンプイ」みたいなことですね。

そもそもたまこまーけっと及びたまこラブストーリーという作品は、クソオタどもがけいおんちゃんけいおんちゃんとケチつけまくったソ・ラ・ノ・ヲ・ト及び神戸守監督へのアンサーソングなんです。まずそこで名前を挙げるべきはソ・ラ・ノ・ヲ・トのシュコ、及びコメットさん☆のラバ坊とムークさんです。

そもそもたまこまーけっとのストーリー自体がコメットさん☆本歌取りであり、コメットさん☆が他国の王子の婚約者選定のお話で、その王子が逃げ出したのをいい事に自分も王子の探索を名目に地球に降りて気ままに生活するお話なわけです。そしてそんな中でいろいろな人と出会い、恋や離別なども含めていろいろな体験をしていく。そんなコメットさん☆を下敷きにしている以上まず日常がウンタラなんてサブカル糞野郎の願望が介在する余地はないです。

話は逸れますがたまこみどりかんなチョイはそれぞれソ・ラ・ノ・ヲ・トのカナタクレハノエルアイーシャだし、あるいは姉と一つの部屋をカーテンで仕切って共有し赤毛のアンのモチーフを持ち、好きな人と離れ離れになったりするあんこはR.O.D the TVのアニタだったりします。たまこラブストーリーにおけるみどりちゃんはR.O.D the TVの岡原っぽい役回りですよね。

日常系という言葉、サブカルクソ野郎どもは何故かあずまんが大王しか参照しませんが日本のアニメーション製作者側が日常描写のアニメが映像作品として成立すると理解になったのはR.O.D the TVの日常パートにおいてアニメーションにおいて不得手とされる細かな芝居をつけ続けた舛成孝二監督が源流ではないでしょうか。ストーリーラインしか追えない視力の悪さだとあずまんが大王とか言っちゃいますがR.O.Dはアクションも日常も非日常も百合含む恋愛もあるしかみちゅ!だって恋愛もすれば非日常だってあるっていう。けいおん!ラブライブ!の直接的な参照元であるまなびストレート!(これもいわゆる日常モノではない)だってR.O.D the TVのオマージュを入れたりしているわけです。

"端的にいって、日常アニメ「たまこまーけっと」は”たまこが日常を守る話”であり、劇場版「たまこラブストーリー」は”たまこの幼馴染であるもち蔵が日常を破壊する話”であります。"

前述のとおりたまこまーけっとはたまこが日常を守る話ではありません。たまこは普段通りにしているだけなのになぜか周りが空騒ぎしている、という作品です。そしてたまこラブストーリーはもち蔵が日常を破壊するのではなく、あえてそういう感じの見立てでいうならもち蔵がたまこをダイアローグからモノローグの世界に引っ張りこむ映画です。

"ただ、日常アニメゆえに恋愛厳禁という不文律のもと、ただの噛ませ犬と化す「王子」と違って、劇場版で扱われる「大路」は、ほんとうに白雪姫でいう王子の役割を果たすことになるのですが…。"

コメットさん☆本歌取りである以上恋愛厳禁の不文律の日常アニメというふうに小野ほりでいが浅い知識で雑に括っている事自体が間違っています。

 

"商店街が、まるで遊園地のように明るく描写されているのは、たまこが商店街という日常に、必死に自分の平穏を、安心を見出そうとしているからではないでしょうか。それゆえたまこは、商店街の活気を守るために努力を惜しみません。"

そもそもたまこまーけっと1話はどういう話であったか。東方の三賢者がイエス・キリストの生誕に間に合わず(故に大遅刻で大晦日)贈り物が渡せず、卵(たまこ)が卵のまま孵らない、というストーリーです。過去の不幸から自分の平穏や安心を見出そうなどという話ではなく、まだまだ孵卵器の中で孵るのを待っているだけ=大人になるのは(あるいは恋は)まだ当分先、ということです。たまこまーけっとたまこラブストーリーと同じく恋についての物語であって、しかしその恋をするのはあんこであったりもち蔵であったりみどりちゃんであったり魚屋であったり風呂屋の娘であったりしてたまこでないだけで、サブカルクソ野郎どもが雑に日常アニメなどというくくりで語る作品とは違います。

 

"このたまこまーけっとというアニメで忘れてはいけないのは「死」という概念で、朗らかで気丈に見える彼女は、実は死と戦っている…という事実です。"

そういうトラウマ駆動型のエロゲみたいなキャラクターの人格を一面的なもののみに規定するような読解は人死にをポルノ化しているという点で到底許容できるものでありません。激おこです。ひなこの死がたまこというキャラクターに影響がないとは言いませんがそんな底の浅い作劇はされていません。この発言にあたり小野ほりでいがどの辺のサブカルクソ野郎のテキストを参照したのかだいたい理解できますがどこだったかまでは忘れた。

 

"たまこの餅屋に置いてある黒電話は、恐らくぐるぐる回るダイヤルと、変化しないいわゆる「サザエさん時空」の示唆だと思われます。"

 

さすがに牽強付会にも程がある。

 

"さて、ぐるぐる回るものが未知の前に逡巡する、変化しないもの、日常を表すとしたら、その反対もやはりあるはずです。

それは、ぐるぐる回るものと対比的に描かれるはずです。"

メタファーまみれの傑作アニメ映画 ”たまこラブストーリー”はオタク批判か? « オクトピ

これだから文系はダメだよな、という認識を強く持った感想でした(そっちかい)/円運動(公転)をするには重力と遠心力が吊り合わないといけない。そこで重力と遠心力は何のメタファーか、という話になるの!w

2015/12/18 11:02

b.hatena.ne.jp

何も付け足すことが無いです

"「たまこラブストーリー」で往復したものはこれだけありました。往復するものは、ぐるぐる回る日常に対し、未知へ一歩踏み出す、進歩的な場面を演出します。

ぐるぐる回るものに対して、直線的なものだと対比としてわかりやすいのですが、あくまでこじつけなのでうまくいかず、「往復するもの」というのが限界の共通点でした。"

この直後に

"重力、というより万有引力はこの映画の冒頭に「By always thinking unto them. (私が発見をしたというのなら、それはずっとそのことを考えていたからに過ぎない)」というニュートンの言葉が表示されるとおり、この映画における主題だといえます。"

と書いておきながらなぜ「落下」がわからないのでしょうか。月が地球に落下し続けている事なんて偉そうに考察とか書くぐらいなら理解していて当然ではないでしょうか。

この後の雑なカセットテープについてのあれこれも円運動と落下が同じものであるという前提さえ理解していればあんな内容にはならないでしょう。

 

"彼女にとって、「日常をはみ出て、非日常の海へ漕ぎだす」ことは、母の死に対峙することと相違ないのです。"

エロゲのやりすぎ

"一見「ほら、この日常の中でぐるぐる回ってなよ」というアニメシリーズ"

前述しましたがそもそも同じ日常でもなんでもないですし。恋をする事と大人になる、ということした時にたまこはまだ卵から孵らないけれどたまこより小さなあんこは変わっているし風呂屋の娘は結婚して魚屋は失恋する、それぞれが主役であれば大きな変容といっていい。ただ一話においてたまこはまだ東方の三賢者からの贈り物が届かず生まれていない、最終話では贈り物が届いた、という意味を少しばかり考える知恵があってよいのではないでしょうか。

  • このアニメは怖がりなオタクの批判なのか、肯定なのか?


つまり、このアニメは「ぐるぐるした日常」から「冒険する非日常」に飛び出しても、戻ってこられるということを言いたいと思うのです。

自意識過剰だしオタクのためだけに作られてると思い込める神経が素敵です

 

"※すごい考察"

全然すごくないですね!!!!!!!!!!