君の名は。の感想

みんなもっと素直に悪口言っていいんですよ?という気分になっている。

ツッコミどころしかない雑な脚本はまあこの際どうでもいいと言えばどうでもいいんですよ日記アプリ使ってるなら曜日のズレで年が違うことぐらいわかるんだろとかそもそもテレビぐらいどっちか片方が見てていいだろとかそういう細かいバカじゃねえのを集めればいくらでもでてくると思うけれどこの際そういうのはどうでもいいので置いておくとしてDTB流星の双子とかどっかでで見たことのあるネタのパクリの集積体なのもこの際どうでもいいとして最終的に残った感想

うわキモッ

だけでした。

多分このアニメをまともに観れている人は美少女の口噛み酒飲みたいとかパンツが見えたのでよかったとか言っている人たちである。彼らをリスペクトしよう。

あ、DTB流星の双子はおもしろいのでみんなみましょう。先の原発事故以降やたらみんな大好きな原発事故ミュータントものだよ!

たまこまーけっと/たまこラブストーリーについて

メタファーまみれの傑作アニメ映画 ”たまこラブストーリー”はオタク批判か?

 

小野ほりでいによるあまりにも粗雑な読解に何故かアホみたいな数のブクマがついているので一応文句を言っておかねばならない

 

"「ぐるぐる回るもの」=「変化や未知のものを恐れて逡巡し、一歩前に踏み出せない状態」という暗喩"

いえですね、まず月の公転というのは地球の重力に引かれて半永久的に「落ち続けている」のだ、というのを恋に「落ちる」にかけてあってですね、だから冒頭のニュートンのリンゴが重力に引かれて落下するわけです。それは変化や未知のものをおそれて逡巡しているという象徴では当然ないわけです。もちぞうはあくまで恋に落ち続けているわけです。そもそも円とか輪とかモチーフというのは映画けいおん!のメインのモチーフと言っていいわけですが(なんせ主題歌が運命・輪・エンドレス)、それに山田尚子監督は変化や未知のものをおそれて逡巡なんていう意味を与えていたかと言われたらNOなんですよ。過去にあったもの、これからも続くもの、継承したもの、次へと繋ぐもの。それをこんな読解してしまうのちょっとありえないです。

 

"多くのメタファーが含まれるこの映画で、比較的わかりやすい「ぐるぐる回るもの」=「変化や未知のものを恐れて逡巡し、一歩前に踏み出せない状態」という暗喩が、そのままアニメーションに変化を求めないオタク像と重なったためです。

よくいう”社会生活で疲れたアニメオタクが、家に帰って見たいのは「何も起きないアニメだ」”という言説を鵜呑みにしてのことですが、当時からあるこの言説も、あながち間違いではないのではないでしょうか。"

 

大間違いです。この手の自意識過剰なオタク的読解こそがたまこまーけっとが最も強く否定しているものです。小野ほりでいマジで死ねッて感じです。

北白川たまこというキャラクターは自意識過剰の正反対、モノローグではなくダイアローグを中心に生きているキャラクターです。人と人との関係の中に生き、自分の事をよく考えていないからこそ「落ちてくるもの」であるバトンを「受け止めるのが下手」で「重心」を意識しろと言われ、糸電話の片方を「受け止めるのが下手」で、そして実際もちぞうに告白された時に自分の気持ちがよくわからなかったために「受け止められない」わけです。別に変化を恐れているわけでもなんでもなく単に自分が何であるのかというのをあまり考えてこなかった子なんです。

たまこまーけっとは自分が事件の中心でありながら私は普通にしているだけなのになぜ周りの人々は騒いでいるのか、という本人だけが蚊帳の外、という話で、停滞している事を積極的に希求したことなどは一度もないんです。馬鹿じゃないのか小野ほりでい

マスコット的立ち位置としては「チンプイ」みたいなことですね。

そもそもたまこまーけっと及びたまこラブストーリーという作品は、クソオタどもがけいおんちゃんけいおんちゃんとケチつけまくったソ・ラ・ノ・ヲ・ト及び神戸守監督へのアンサーソングなんです。まずそこで名前を挙げるべきはソ・ラ・ノ・ヲ・トのシュコ、及びコメットさん☆のラバ坊とムークさんです。

そもそもたまこまーけっとのストーリー自体がコメットさん☆本歌取りであり、コメットさん☆が他国の王子の婚約者選定のお話で、その王子が逃げ出したのをいい事に自分も王子の探索を名目に地球に降りて気ままに生活するお話なわけです。そしてそんな中でいろいろな人と出会い、恋や離別なども含めていろいろな体験をしていく。そんなコメットさん☆を下敷きにしている以上まず日常がウンタラなんてサブカル糞野郎の願望が介在する余地はないです。

話は逸れますがたまこみどりかんなチョイはそれぞれソ・ラ・ノ・ヲ・トのカナタクレハノエルアイーシャだし、あるいは姉と一つの部屋をカーテンで仕切って共有し赤毛のアンのモチーフを持ち、好きな人と離れ離れになったりするあんこはR.O.D the TVのアニタだったりします。たまこラブストーリーにおけるみどりちゃんはR.O.D the TVの岡原っぽい役回りですよね。

日常系という言葉、サブカルクソ野郎どもは何故かあずまんが大王しか参照しませんが日本のアニメーション製作者側が日常描写のアニメが映像作品として成立すると理解になったのはR.O.D the TVの日常パートにおいてアニメーションにおいて不得手とされる細かな芝居をつけ続けた舛成孝二監督が源流ではないでしょうか。ストーリーラインしか追えない視力の悪さだとあずまんが大王とか言っちゃいますがR.O.Dはアクションも日常も非日常も百合含む恋愛もあるしかみちゅ!だって恋愛もすれば非日常だってあるっていう。けいおん!ラブライブ!の直接的な参照元であるまなびストレート!(これもいわゆる日常モノではない)だってR.O.D the TVのオマージュを入れたりしているわけです。

"端的にいって、日常アニメ「たまこまーけっと」は”たまこが日常を守る話”であり、劇場版「たまこラブストーリー」は”たまこの幼馴染であるもち蔵が日常を破壊する話”であります。"

前述のとおりたまこまーけっとはたまこが日常を守る話ではありません。たまこは普段通りにしているだけなのになぜか周りが空騒ぎしている、という作品です。そしてたまこラブストーリーはもち蔵が日常を破壊するのではなく、あえてそういう感じの見立てでいうならもち蔵がたまこをダイアローグからモノローグの世界に引っ張りこむ映画です。

"ただ、日常アニメゆえに恋愛厳禁という不文律のもと、ただの噛ませ犬と化す「王子」と違って、劇場版で扱われる「大路」は、ほんとうに白雪姫でいう王子の役割を果たすことになるのですが…。"

コメットさん☆本歌取りである以上恋愛厳禁の不文律の日常アニメというふうに小野ほりでいが浅い知識で雑に括っている事自体が間違っています。

 

"商店街が、まるで遊園地のように明るく描写されているのは、たまこが商店街という日常に、必死に自分の平穏を、安心を見出そうとしているからではないでしょうか。それゆえたまこは、商店街の活気を守るために努力を惜しみません。"

そもそもたまこまーけっと1話はどういう話であったか。東方の三賢者がイエス・キリストの生誕に間に合わず(故に大遅刻で大晦日)贈り物が渡せず、卵(たまこ)が卵のまま孵らない、というストーリーです。過去の不幸から自分の平穏や安心を見出そうなどという話ではなく、まだまだ孵卵器の中で孵るのを待っているだけ=大人になるのは(あるいは恋は)まだ当分先、ということです。たまこまーけっとたまこラブストーリーと同じく恋についての物語であって、しかしその恋をするのはあんこであったりもち蔵であったりみどりちゃんであったり魚屋であったり風呂屋の娘であったりしてたまこでないだけで、サブカルクソ野郎どもが雑に日常アニメなどというくくりで語る作品とは違います。

 

"このたまこまーけっとというアニメで忘れてはいけないのは「死」という概念で、朗らかで気丈に見える彼女は、実は死と戦っている…という事実です。"

そういうトラウマ駆動型のエロゲみたいなキャラクターの人格を一面的なもののみに規定するような読解は人死にをポルノ化しているという点で到底許容できるものでありません。激おこです。ひなこの死がたまこというキャラクターに影響がないとは言いませんがそんな底の浅い作劇はされていません。この発言にあたり小野ほりでいがどの辺のサブカルクソ野郎のテキストを参照したのかだいたい理解できますがどこだったかまでは忘れた。

 

"たまこの餅屋に置いてある黒電話は、恐らくぐるぐる回るダイヤルと、変化しないいわゆる「サザエさん時空」の示唆だと思われます。"

 

さすがに牽強付会にも程がある。

 

"さて、ぐるぐる回るものが未知の前に逡巡する、変化しないもの、日常を表すとしたら、その反対もやはりあるはずです。

それは、ぐるぐる回るものと対比的に描かれるはずです。"

メタファーまみれの傑作アニメ映画 ”たまこラブストーリー”はオタク批判か? « オクトピ

これだから文系はダメだよな、という認識を強く持った感想でした(そっちかい)/円運動(公転)をするには重力と遠心力が吊り合わないといけない。そこで重力と遠心力は何のメタファーか、という話になるの!w

2015/12/18 11:02

b.hatena.ne.jp

何も付け足すことが無いです

"「たまこラブストーリー」で往復したものはこれだけありました。往復するものは、ぐるぐる回る日常に対し、未知へ一歩踏み出す、進歩的な場面を演出します。

ぐるぐる回るものに対して、直線的なものだと対比としてわかりやすいのですが、あくまでこじつけなのでうまくいかず、「往復するもの」というのが限界の共通点でした。"

この直後に

"重力、というより万有引力はこの映画の冒頭に「By always thinking unto them. (私が発見をしたというのなら、それはずっとそのことを考えていたからに過ぎない)」というニュートンの言葉が表示されるとおり、この映画における主題だといえます。"

と書いておきながらなぜ「落下」がわからないのでしょうか。月が地球に落下し続けている事なんて偉そうに考察とか書くぐらいなら理解していて当然ではないでしょうか。

この後の雑なカセットテープについてのあれこれも円運動と落下が同じものであるという前提さえ理解していればあんな内容にはならないでしょう。

 

"彼女にとって、「日常をはみ出て、非日常の海へ漕ぎだす」ことは、母の死に対峙することと相違ないのです。"

エロゲのやりすぎ

"一見「ほら、この日常の中でぐるぐる回ってなよ」というアニメシリーズ"

前述しましたがそもそも同じ日常でもなんでもないですし。恋をする事と大人になる、ということした時にたまこはまだ卵から孵らないけれどたまこより小さなあんこは変わっているし風呂屋の娘は結婚して魚屋は失恋する、それぞれが主役であれば大きな変容といっていい。ただ一話においてたまこはまだ東方の三賢者からの贈り物が届かず生まれていない、最終話では贈り物が届いた、という意味を少しばかり考える知恵があってよいのではないでしょうか。

  • このアニメは怖がりなオタクの批判なのか、肯定なのか?


つまり、このアニメは「ぐるぐるした日常」から「冒険する非日常」に飛び出しても、戻ってこられるということを言いたいと思うのです。

自意識過剰だしオタクのためだけに作られてると思い込める神経が素敵です

 

"※すごい考察"

全然すごくないですね!!!!!!!!!!

ハーモニーみてきたヨー

原作未読。

なんかイマジネーター水乃星透子と夏目エリスを足して2で割ったような女に大塚白倉的にコマされた凡俗女がガクソによる完全管理社会でVSイマジネーターが僕は天使の羽根を踏まないでミルナの禁忌する映画であった。

ニュルンベルクのマイスタージンガーの口笛とともに世界の敵を殺す死神が出てくるのかと待っていたが出てこなかったし犬彦も出てこなかった。

いい感じに頭の悪い美術とか衣装とか乗り物に辟易しつつもそもそも沢城さんという賢しげに見えるがその実頭が悪い凡俗役を演らせたら右に出るものがいない役者を主役に配しているいる以上、故意犯なのであろうと思いつっこんだら負け感があった。redjuiceはポスト田島昭宇とか思ってもいないことを適当に垂れ流して伊藤計劃以降としたい。

ノイタミナでは以前サイコパスとかいう多重人格探偵サイコの露骨すぎるオマージュアニメをやっていたこともあり、そういう文脈できっと作られた映画なのだなあと考えさせられた。大塚で育った世代が権力を持ってきた結果がこれだよ!

百合? 劇場版零でいいよ。

いやさあこの映画自体は金返せとも思わない程度に心の底からどうでもいいんだけど伊藤計劃はもっとドライでライトノベルにキャラの絵柄寄せすぎてて不愉快とか言ってるSF畑のゴミどもの会話をTwitterで見かけてさあ、こんなどう解釈しようが上遠野と大塚白倉の名前が出てこないわけがないような作品でだよ? ライトノベルとは違うんだというSF畑の馬鹿の優越感ゲームの出汁にされる故伊藤計劃とredjuiceはかわいそうだと思いました元のデザインはともかく(衣装は絶望的にクソダサい)アニメとしての落とし込み方は最悪と言わざるをえない変な絵だったけど。

それと桜trickの名前持ちだして揶揄してる伊藤計劃オタの連中、桜trickの方がよっぽど志の高い作品だったし信仰に値するものが存在していたでしょうに。一回死ねば?

 それはそうと時槻風乃と黒い夜の童話3集は思春期女子集団自殺百合モノとしてとても良いので百合オタは買いましょうね!

僕は天使の羽根を踏まない (徳間デュアル文庫)

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MADARA MILLENNIUM 転生編〈1〉 (角川スニーカー文庫)

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ミルナの禁忌

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ロリータ℃の素敵な冒険 (徳間デュアル文庫)

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 大塚白倉的地獄百合小説の傑作

おわり。

声優論の花澤香菜項についてとりあえず暫定的なツッコミ

 

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

 

夏葉薫氏の文章はどれもマストリードなのでそれのために買って損はないです。

と前置きをした上でわたしゃどうしてもこの町口哲生という輩が許せない。

 

一、声優として
一、ニ段落目。
1ページ使ってゼーガで声優の仕事を覚えたので花澤さんにとってゼーガは重要であると書いてある。何に紙幅を消費しているのかといえば作品紹介であり、大沢事務所の松岡超の名前も川澄綾子の名前も無い。紹介としても片手落ちである。LAST EXILEのちょい役にしても無駄に役の長い説明で一行消化しているが、どういう役であったかは書かれていない。

三段落目
魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~の作品紹介であり、やはり花澤香菜の特筆性などは一切書かれていない。実際パンを食べて収録したから代表作というのも納得だそうだがなぜ実際パンを食べて収録したから代表作として納得できるのかの論拠が鈴木ソラ=花澤香菜のような形で、彼女の息づかいまで感じられるからだそうだ。そりゃマイクは息づかいまで収録するためにあるのであるし、別に花澤香菜である特筆性はない。この文章に何の意味があるのか。

四段落目
唐突にサブカルポモの偽史開陳がはじまる。
町口によると僕は友達が少ないは10年代のキーワード「残念系」の代表作だそうだ。しかも部活でだらだらするという意味で「空気系」(日常系)にカテゴライズできるらしく、さらのその下部範疇として「残念系」と呼ぶらしい。その理由は美男美女の性格が残念だからだそうだ。
僕は友達が少ないはまともな読者であれば知っての通り、メタダラダラする部活モノ作品かつメタハーレムラブコメの体裁を取りつつある種のマイノリティに対する風当たりに対して反旗を翻す物語であり、また他頁において町口が「セツナ系」などという私のTLにいる百戦錬磨のライトノベル読みの誰も使っているところをみたことがない言葉によって極めて雑なカテゴライズをされている竹宮ゆゆこの作品のフォロワー的な、人と人とのいびつな距離感の機微や時には対立し殴りあう、エモーショナルな側面を強調したラブストーリーである。まともな読者であれば「残念系」という作品に対する惹句が「空気系」あるいは「日常系」などという薄ら寒いサブカルクズが好むカテゴライズからかけ離れたものであることは自明のものとしているだろう、まともな読者であれば。
それでは本段落における花澤香菜の特筆性は何か。小鳩ちゃんを見事に演じた作品に彩りを添えたとしか書いてないのである。何も言っていないに等しい。
小鳩ちゃんとしての花澤香菜であれば、木村良平の圧倒的な兄力の庇護下のひたすら狭い世界で安寧だけを得るその役の解釈の精密さとそこからなお漏れ出る聖性とかいろいろ言うことがあろうものだが。

ニ、メディア論から見た声優
メディア論とかいいながら言葉通り単に他人の論じたことに声優を当てはめているだけで、ここでも花澤香菜はあくまで代替可能な名刺、せいぜい人気声優程度の意味合いが存在していない。別に声優である必然すらないだろう。この項目に関し、個人的見解を言うならヌルい声オタ未満のそこらのアニオタの生体と声優のパフォーマンスの間には何の関係もない。

三、歌姫として
一段落目。何故かいきなりソロアルバムの話からはじまるが、そもそも花澤香菜は北川さんプロデュースのトラックメイカーの顔ばかり見えてくる曲よりも何故か気合入りまくっているキャラソンの方が圧倒的にヤバいともっぱら評判であるのでなぜソロデビュー以前の話をしないのか謎である。恋愛サーキュレーションは付属CDだけでBDの売上を他巻より1万枚積み上げたにも関わらず、だ。ちなみに私が本当にヤバいと思うのはDTB流星の双子のTwinkle real starとアイマスDSのプリコグです。花澤香菜渋谷系といえばプリコグです。
そしてこの段落で書かれていることといえば渋谷系の極めて雑な説明だけである。渋谷系いいたいだけの模様だ。
二段落目。アルバムの豪華プロデュース陣の紹介、楽曲の雑な紹介等である。花澤さんがリラックスして歌っている。だから何。
三段落目。インタビュー記事を引きつつ雑な楽曲紹介の続きである。論とは何か。
四段落目。アルバム25の歌詞の解釈の自説を述べている。言理の妖精語りてじゃなく諸葛亮曰く、ほかに書くことはないのですか。一応凛とした声とか花澤の声は空気のそよぎみたいとかも書いてあるだけマシか。
五段落目。いろいろ書いてあるが本質はロキノソポエムの類。気持ち悪い。

四、再び声優として
一段落目。絶園の左門さんにおける花澤さんは難しい役を見事にこなしたそうです。見事とは極めて具体性に欠く言葉である。何を論じているつもりになっているのか。
二段落目。COPPELIONが震災がどうこうの新しい想像力の作品とか書いてあるがググるのもめんどくさいが私の記憶が確かならばCOPPELIONは震災以前の作品であり、震災と原発事故の影響でアニメの製作だか放送だかが延期された作品であり、内容といえば放射能ミュータントというアメコミなどでおなじみの昔ながらの作品であり、あるいはタルコフスキーのストーカーなどでも描かれる放射能汚染地域の話でありつまりここで書かれていることは単純にサブカルポモお得意の歴史の捏造である。震災以降とか言いたいだけのあの気持ち悪い界隈はクネクネと原発事故麻雀でもしてろ、以外の感想はない。
五段落目、ここまで紙幅を費やしてようやく花澤香菜の特筆性らしきものの記述がはじまるが、実年齢とかけ離れた性格というのはキャラクターの話であって芝居の話ではなく、なぜ配役されるに至るのかという話ではない。そして舌とか口の開け方とかでコントロールして演じたのですごい、という話しらしい。口とか舌を使わず芝居をする声優というのは私は寡聞にして存じませんが。その思いを強くしたのはみんな大好き監視官常森朱ちゃんらしい。そしてそれに異論はないだろう、ということらしい。知らんがな。
六段落目。サイコパスという犬かわいいで皆殺しのしちゃうリベリオンみたいなB級多重人格探偵サイコのパロディアニメの解説。常森ちゃんの声をしっかりあてたらしい。知らんがな。ちなみにサイコパス2は大塚英志原作衣谷遊作画の漫画リヴァイアサンのパロディアニメです。

以上、この文章はポモ特有のオタク文化史に対する犯罪的捏造と、別に花澤さんでなくてもいいメディア論と、花澤さんのお仕事の解説だけである。何をもってこれを花澤香菜論としたのかまるでわからない。声オタがTwitterで発している花澤さんにのパフォーマンスに対する賛美でももう少し花澤香菜という声優の特筆性について意味のあることを言っているだろう。